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大竹と戦争~写真集「ふるさと大竹」より~

市制施行30周年(昭和59年)を記念して制作された「写真集 ふるさと大竹」より抜粋した、戦時中の大竹市の様子を紹介します。(若干の修正を除き、ほぼ原文のまま公開します。)

 

戦時写真1

1.慰問袋発送

日中戦争勃発当時、大竹町からも多くの兵士が戦場へ赴いた。前線の兵士たちに日用品や書籍、菓子などと共に手紙を添え、袋詰めにして送ったものが慰問袋であり、各戸で作ってはまとめて送った。

写真は、旧大竹町役場前で、大竹町からの慰問袋発送記念に撮られたものである。

 

 

戦時写真2

2.国防献金貝堀り

昭和9年(1934)10月に大竹国防婦人会が結成された。婦人会では国防献金に貝堀りを企画。小瀬川河口で実施したもので、昭和10年頃と思われる。左手が和木村、右手が大竹町で婦人のほとんどが着物姿である。昭和15年(1940)に大竹海兵団の建設が始まり、昭和16年(1941)11月に海兵団発足と共に、河口一帯は軍の機密上から立入禁止となり、貝堀りや魚釣り・のりの養殖も禁止された。

 

戦時写真3-1

3.不時着陸場開設

昭和11年(1936)3月、大竹の小島新開(現在の東栄一帯)に逓信省管轄による広島飛行場の不時着陸場が開設された。開設の際は朝日新聞社機を含む数機が飛来した。
 

戦時写真3-2

数年間は不時着陸場として機能を果たしたが、中には写真のように着陸に失敗するものもあった。木製プロペラが破損したほかはたいして壊れておらず、現在の航空機事故からするとのんびりした場面である。一時期遊覧飛行場としても使われたが、大竹海兵団が設置されるにあたり不時着陸場は閉鎖された。

 

戦時写真4

4.大竹駅頭に出征兵士を送る

昭和12年(1937)7月、日中戦争の勃発により在郷軍人に対し、召集令状が出された。大竹町でも数多くの軍人が応召していった。写真は同年9月の大竹駅頭での見送り風景である。各町内の有志や在郷軍人会、親族でホームは激励の渦であった。
 
 
 
戦時写真5

5.無言の帰還

昭和12年(1937)に起こった日中戦争に大竹市域からも多くの兵士が従軍していった。大竹駅は兵士を送る晴れの場であったが、また、物言わぬ白木の箱の帰還者を迎える所でもあった。
駅頭に着いた遺骨は肉親に抱きかかえられ、生家に向かおうとしている。昭和13年(1938)2月28日、雪が積もり寒風の中、人々は涙をこらえて立ち尽くした。小学生までも。
 
 
戦時写真6

6.青年会館での旗作り

日中戦争に従軍する兵士たちを見送るためや、旗行列に多くの日の丸が必要になり、愛国婦人会や女子青年団の手で日の丸が作られた。
写真は、昭和12年(1937)の青年会館での旗作り風景である。

 

 

 

戦時写真7

7.学徒勤労奉仕隊

権現山(後に大竹海兵団の用地造成用土砂採掘のため削られた。現在は広島銀行大竹支店がある)を後方に控え、現在の大竹中学校あたりの田で稲刈りに奉仕する高等小学校の生徒たち。時あたかも日中戦争、太平洋戦争という不穏な頃で、出征兵士の留守宅では男手がなく、刈り入れも大変であった。そこで児童生徒たちの奉仕となった。日の丸や奉仕班の幟がなければ体験学習と見間違えそうであるが、その目的は大きく違っていた。
 
戦時写真8

8.防火訓練

この写真は昭和13年(1938)頃、防空演習の一環として実施された、大和橋付近での防火訓練である。右手の洋館は四国銀行本町支店(現在は建物はなく駐車場になっている)で、中央のサーベル姿は当時の警察官である。
 
 
 
 
戦時写真9

9.戦時下の婦人―銃後の守り―

昭和17年(1942)戦時下の防鹿婦人会の消火訓練である。開戦の年(1941)に作られた愛国婦人会は、昭和6年(1931)に発足した国防婦人会と合併し、大日本婦人会となった。各地区での活発な消火訓練は、やがて腕を競う競技会へ発展していった。鉢巻、モンペ姿は当時の銃後の守りのユニフォームであった。

 

 

 

戦時写真10

10.大竹海兵団

昭和16年(1941)11月20日、呉鎮守府管下の新兵教育機関として大竹海兵団が発足した。志願兵、徴集兵、補充兵の新兵教育が行われ、編成は兵科、整備科、機関科、主計科、医務科の各練習隊よりなり、多くの水兵が教育ののち戦場へ送り出された。昭和18年(1943)には戦況激化に伴い、1万名を超す水兵が在籍した。大竹は軍需品の納入や運送、軍人家族の住宅建設等の拡充強化のため、軍需景気で賑わった。
 
戦時写真11

11.海軍潜水学校

海軍潜水学校は潜水艦の乗務訓練、高度な操艦技術や諸兵科の技術取得を目的とし、優秀な潜水艦乗員を養成するために、全国でただ1ヶ所設置された学校である。昭和16年((1941)から建設にかかり、昭和18年(1943)6月8日開校式を挙行、学生隊(士官)、練習生隊(下士官・兵)で構成された。昭和20年(1945)には7千名を数える大施設となり、大竹警備隊も併設されていた。

 

 

戦時写真12-1

12.海外引き揚げ風景

昭和20年(1945)8月30日に「外地及び外国在留邦人引き揚げ者応急援護措置要項」が制定され、大竹港が海外引き揚げ者の上陸地に指定された。さらに、同年12月14日、引き揚げ援護局が設置された。 
一方、収容施設の一つとして11月19日、旧潜水学校内に国立大竹病院が設けられた。そして、12月10日、フィリピン、ニューギニア方面から第一船氷川丸(ひかわまる)が大竹港に入港した。
戦争中最も悲惨な戦闘が展開された地域の者ばかりであったため、そのほとんどがやつれ衰えて痛ましい限りであった。昭和22年(1947)1月末までに41万783名の軍官民が上陸した。
 

戦時写真12-2

引き揚げ者の受け入れ業務は、入港と同時に船内検疫、携行物の取り調べ(税関)、上陸後直ちに陸上検疫(身体検査,予防注射など)が行われ、入院を要する者は国立大竹病院(宿舎)に入った。人々は2~7日間ぐらいで引き揚げ証明書、俸給、旅費、衣料、日用品を支給されて特別列車で大竹駅から帰郷していった。

大竹町でもこれら引き揚げ者を心から歓迎し、大竹駅頭で湯茶の接待をしたり、収容施設内に銭湯や理髪店、食堂などを設けるなど、手厚く奉仕した。

 

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「戦争と原爆」大竹歴史研究会ホームページ

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更新日:2020年8月4日